インタビュー

諸説あり 「元伊勢伝承」の謎に迫る!

京都府福知山市大江町には、元伊勢伝承の神社がある。

「元伊勢内宮皇大神社」と「元伊勢外宮豊受大神社」だ。

地元では天岩戸神社を合わせて「元伊勢三社」と呼んでいる。

先の二社はその名のごとく、伊勢神宮(三重県伊勢市)内宮と外宮の元宮と伝えられている。

果たしてそれは事実なのか、あるいは捏造の古代史なのか?

仮に事実だとすれば、なぜ大江町に元伊勢内宮と元伊勢外宮が創建されたのか?

大江地域観光案内倶楽部会長で古代史研究家の赤松武司氏が、神話・伝承と古文書・考古学分野の知識を駆使し、独自の視点で元伊勢伝承の謎を解き明かす。

通説の説明のほか、驚愕の逆説や新説も飛び出す、ミステリーの謎解きのようなヒリヒリするインタビューが始まった。

全文を読み終わったあと、あなたの古代史に対する固定観念は見事にひっくり返るかもしれない。

語り手・文責:赤松武司  

(大江町在住 大江地域観光案内倶楽部会長、大江地域里山研究会代表)

※大江地域観光案内倶楽部会長を務めており、大江地域の歴史的な事、自然的な事すべてを網羅して説明できる唯一の人物。

聞き手・文:倉田楽 

(大江町出身のフリー編集・ライター)

鎮座地を探す旅で辿り着いたのはタニハ

―― 赤松さん、そろそろ元伊勢の適地を探す旅に出かけましょうか?

そうしましょう。天照大神のご神体は、豊鍬入姫命に命じて、まず笠縫邑に仮の磯堅城神籬(しかたきひもろぎ)を立てました。磯堅城神籬とは、強固な石製の神の降臨場所という意味です。

そして豊鍬入姫命に天照大神のご神体を永遠に祀る場所を探す任務が託され、崇神天皇の39年当時但波(タニハ)と呼ばれていた北近畿地方に適地を発見したのです。後に「但波吉佐宮」(よさのみや)と呼ばれる社を築いて4年間祀られていたという伝承が出来るわけで、その但波吉佐宮の旧跡とされるのが、現在の大江町の元伊勢内宮皇大神社だとされているのです。現在の伊勢神宮の場所に落ち着く前に、天照大神のご神体を大江町で祀っていたということです。もちろんこれはあくまでも一つの説ですが。
豊鍬入姫命の時代には他に和歌山等も行くのですが適地が見つからず、事業は第11代垂仁天皇の第4皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)に引き継がれます。倭姫命は更に鎮座地を求め、天照大神を祀りながら日本全国を遍歴し、その跡地を元伊勢と言っているんです。

―― 北近畿地方のタニハとは、のちの丹波のことですね? では、丹後と丹波が分割する前のことですか?

まずは読み方から始めましょう。「但波」は古くは「タニハ」と呼ばれており、やがて「タンバ」と音が変化して、「丹波」という漢字が充てられたと考えられています。

律令制以前は、丹波国造(たんばのくにのみやつこ)が支配した丹波国に丹後国と但馬国(現兵庫県北部)も属していました。文献上では登場しないけれども、丹波国には若狭地方(現福井県南部)も含まれていただろうという説もあります。

地方の文化圏エリアを調べる方法はいくつかあります。先ずは古墳の形状です。丹後地方独特の古墳の形状があります。また壺の形状にも地域によってそれぞれ個性が有り、更に神社に納められている祭祀道具の形状も少しずつ異なるのです。小物の形状を専門に調べている人もいます。

この方法によれば、北播磨、但馬、丹波、丹後、若狭、そして山城北部、摂津北部、近江北西部はすべてタニハに含まれていたのではないかという説もあります。これらの地方が、学者が唱えるタニハの最大エリアです。学者以外の人が唱えているものでは、尾張地方まで含まれていたのではないかという説もありますが、さすがにそれは現実的ではありません。

理屈の上では丹波、丹後、但馬、若狭の北近畿地方がタニハ地方だったと言えるでしょう。

ヤマト王権の支配下に置かれて大分経って奈良時代に入ってから、丹波国からまず但馬が分かれ、706年に丹波と丹後が分割されたと考えられています。

ところがこの内宮皇大神社の前身にあたる但波吉佐宮がいつ頃何処に出来たのか、未だに確定した説は無いのです。

20ヵ所以上にも及ぶ皇大神宮の遷宮や但波吉佐宮について、最も詳しく記されているのは伊勢神宮の古秘書『神道五部書』のひとつ『倭姫命世記』(やまとひめのみことせいき)という古文書です。この文献が書かれたのは1200年代で、鎌倉時代に伊勢神宮外宮の社家・渡会行忠が編纂したものだと言われています。つまり1200年以上の前の神話を編んだわけです。

 

―― 『神道五部書』はそんなに後で書かれた文献だったんですか……。それなら、但波吉佐宮がいつ頃できたのか、誰もわかりませんね。

大江山はどのエリアに含まれていたのか、それが問題だ

―― 但波吉佐宮の「吉佐」はどういう意味ですか?

吉佐と呼ばれた以上は、与謝地方にあったからだと考える意見が有り、「吉佐」は現在の与謝郡(宮津市、伊根町、与謝野町)の地域を連想しがちですが、ここでいくつかの問題が出てきます。

一つ目は「当時の与謝郡と加佐郡の境は何処に在ったのか、途中で変更は無かったのか」という問題です。現在のようにほぼ大江山の尾根沿いを境とする考え方が有りますが、現在の境は今から150年前の明治時代になってから確定されたもので、江戸時代の文献等には由良川沿い迄とするものも有ります。(大江町天田内常光寺の釣り鐘、舞鶴大浦半島の多祢寺縁起等)江戸時代大江町の元伊勢の在る一帯は与謝郡とされていたのです。

次に与謝郡(よさのごうり)と言う言い方は、いつ頃から呼ばれたのでしょうか? 一般的には西暦701年の大宝律令によるとされています。ただ、その前に郡ではなく評と書いて与謝評と記した木簡が出土していますので、この標記の仕方をした西暦646年の大化改新が最も古いと考えられています。つまりこれでは一説に紀元前の話とされている元伊勢の謂れとなった神社は600年代後半以降の建立でなければ辻褄が合いません。

最後に日本語の統一標記の仕方ですが、元々漢文をそのまま使っていたと考えられ、その後万葉仮名と呼ばれる大和言葉一発音に対して本来表意文字である漢字を表音文字として一漢字を当てはめた使い方がされ、一漢字複数発音が採用されたのは早くても奈良時代後半以降と考えられています。よって二発音の和名が元々有って、それに与謝とか吉佐の当て字が使われたものであると考えられていますが、意味は分りません。

一つ目の話をもう少し掘り下げてご紹介させていただきます。元伊勢三社の一つである元伊勢外宮豊受大神社に祀られている豊受大神は、もともと丹後半島に天下った神様で、第21代雄略天皇の晩年に丹波国から伊勢に移して祀ったとされています。その豊受大神社がある大江町天田内に常光寺(じょうこうじ)という曹洞宗のお寺があります。そこの梵鐘の銘板に鋳造年と住所が次のように記されています。

「干時正徳元年(一七一一)卯暦小春初三日丹後國輿謝郡河守庄天田内村宝月山常光禅寺」

江戸時代の中頃であった1711年に、この地は与謝郡河守という庄名を冠せられたことがわかっているのです。

お寺は、江戸幕府が庶民を支配するために設けた装置みたいなものでした。それぞれの地域に寺社奉行がいて寺を監視していたのです。そこから分るのは、宮津藩は大江町河守地区を与謝郡だと認識していたということです。

もうひとつ、根拠になるものがあります。舞鶴の大浦半島の真ん中に真言宗の古刹、多禰寺(たねじ)があります。この古刹に残る社伝『多禰寺縁起』には、この寺がどういういきさつで建てられたのかが記してあります。

 

―― ひょっとしたら大江山にちなんだ鬼退治伝説と関係がある逸話ですか?

はい、大江山に幾つかの鬼退治伝説が伝わっています。源頼光による酒呑童子討伐が最も有名な説話ですが、これに先行する二つの鬼退治伝説があります。「多禰寺縁起」に記されているのがその一つです。

用明天皇の第3皇子で聖徳太子の異母弟の麻呂子親王による鬼退治の話です。時は飛鳥時代の600年前後のこと。

当時、「与謝の大江山」と呼ばれていた大江山に、英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)の三鬼を首領とする多くの鬼が棲み、丹波国はまるで魔国のようになっていました。そこで麻呂子親王が「退治した暁には木彫りの薬師仏をつくる」と戦勝祈願をしたのです。

その結果、戦いに勝った親王は薬師仏の加護に感謝して、但波に七ヵ所の寺院を建て七仏薬師を祀りました。その内の一つが多禰寺であると記されてあります。

そのなかで大江山は「与謝郡河守庄三上嶽」と記されています。江戸時代の作品なので、江戸時代に関しては、大江町河守地区は完全に与謝郡と認識されていたことが分かります。

 

―― 大江町河守も与謝郡であり、与謝郡に在る宮だから後世の文献で「吉佐宮」と名づけられたのですね。

それは結論を急ぎすぎです。江戸時代に大江町の半分は宮津藩の領地であったことは間違いありませんが、昔からずっと与謝郡で、明治時代になって加佐郡に変わったのかと言えば、実はよく分らないんです。

これを解明するには、三つの説があります。ひとつは、宮津藩のなかで江戸時代に郡替えがされたということ。

二つ目として、宮津藩の陸つづきの領地となっていった地域は、正式には加佐郡だったのかもしれないが、一般的にお城の在る与謝郡と同じと認識されていたので、書物に住所を与謝郡と書いていたのではないか。これが最も有力な説です。

三つ目は、平安時代中期につくられた辞書に相当する文献「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)には「加佐郡河守」と表記してありますが、河守といった場合、由良川沿いだけを加佐郡河守とし、河守上地区を当時は神戸と書いてカンベと読みますが、ここだけは与謝郡として捉える考え方も可能です。

ともあれ神話・古文書の世界では、4年間だけ但波吉佐宮に天照大神の御霊が祀られたとありますが、どんなに遡って行っても平安時代初期までしか根拠らしき所に辿り着くことは出来ません。

ですから、そもそも論として、但波吉佐宮という社名に気を奪われる必要は無いのです。

「なぜ4年間だったのか」問題に迫る

—- では、そろそろ「元伊勢伝承の謎」の核心に迫りましょう。但波吉佐宮で天照大神のお祀りしたのが4年間だけだったのはどうしてでしょうか?

「なぜ4年間だったのか」についてはさまざまな文献に記されています。文献には、その後も諸国を巡行したとして、伊賀や桑名など二十数ヵ所のゆかりの地が記されています。しかし、「その地方へ行ったという説」と「行っていないという説」があり、正式にはよくわかっていません。

天照大神の鎮座地を求めてタニハへ遷幸し、神社を築いた皇女・豊鍬入姫命はその後、すぐにヤマト王権のある奈良へ戻っています。さらにまたどこかに行き、また帰って来ています。これはどういうことなのでしょうか? 元伊勢の観光案内を行う際、私は次のように説明しています。

「豊鍬入姫命は天照大神の鎮座地を求めて北近畿地方へ来たんやけど、ここは想像以上に寒いところやった。神様も震えとった。こんな寒いとこはもうおりたくない、もっと暖かいところへ行きたい……と弱音を吐いて、約4年間でヤマトへ帰ったんや。

そこで、次はもっと暖かいとこへ行こうとなって、和歌山へ行ったんや。和歌山では2年間ほどおったんやけど、台風の直撃を受けて怖かった。それでまたヤマトへ帰ったんや。

そのあと、岡山県へ行ったんや。あそこ天気ええやろ。けどな、日照りが続いて、喉が渇いたからか知らんけど、そこでも弱音を吐いて4年間で帰ったんや」

 

—- 大江町の方言を盛り込んだ赤松節炸裂ですね。で、その後、御代がかわり、豊鍬入姫命から倭姫命に受け継がれるわけですね?

11代垂仁天皇の代になり、第四皇女倭姫命が事業を受け継いでからは、現在の奈良県を出発し、伊賀上野から、滋賀県甲賀地方をまわり、岐阜県美濃地方に寄り、三重県北部から南下して、ようやく現在の伊勢市へたどり着きました。

一般的にはこういう話になっていますが、豊鍬入姫命と倭姫命のご巡行の経路は文献により異なりますが、私は笠縫邑を含めて27ヵ所としています。

 

—- 元伊勢三社と伊勢神宮には、多くの共通点があります。元伊勢内宮皇大神社の側を流れる清流「五十鈴川(宮川)」と同じ名前の川が伊勢神宮内宮の入口にあります。宇治橋、真名井ノ池、猿田彦神社なども伊勢神宮にまつわる名称です。こうした要素からも元伊勢神社は伊勢神宮の原型だとする説がありますが、信憑性はあるのでしょうか?

元伊勢と伊勢の共通点を書いた資料はすべて後付けです。私たちは神話・古文書の世界と伝承•考古学的・その他の学問的な世界を調べ、それぞれを対比してきました。私が喋っているのもそれらをまとめ、総合的に判断したものです。

古文書に記された「布甲神社」の謎

—- 皇大神社や豊受大神社という社名が古文書に登場するのはいつ頃のことですか?

平安時代の初期927年にまとめられた『延喜式神名帳』という古文書があります。それは日本全国の神社一覧表、いわば神社のデータベースなのですが、実はそこに皇大神社という社名は記されていないのです。

この周辺で記されているのは「布甲神社」(ふこうじんじゃ)という社。ところが、その場所がわからないのです。

宮津市によると、第1候補は普甲峠にある小さな神社のこと、第2候補は普甲峠を下った小田といた集落にある神社のことではないかということです。

いっぽう、江戸時代初期に書かれた宮津藩の研究書によれば、皇大神社のことを布甲神社と呼んでいたのではないかと指摘しています。

では、実際にはどこにあったのでしょうか? 私も疑問に思い、研究を開始しました。

まず「峠」という言葉の概念から考えてみました。峠とは、上ったり下りたり、谷も含めて峠と呼んでいたのではないか。そうすると共通した意味合いをもつのは、普甲峠を下りたところから先はずっと平坦で、水辺までたどり着くことができる場所と場所の間ということです。

大江側で上ったり下りたりしないで由良川までたどり着けるスタート地点といえば、皇大神社の周辺です。ということは、元伊勢内宮の周辺が普甲峠のスタート地点ということになります。

調べていくと内宮という集落は古くからあったわけではなく、もともとは布甲という村で、布甲神社がここにあったのではないかと考えられています。

 

—- その「布甲」とは、どういう意味だとお考えですか? 赤松説で結構ですから、お聞かせください。

「吹く男=ふくお」という言葉が変化したものだと推測できます。

全国の神社の変遷を見ていくと、まず食糧が無事に生産できることを祈願する神社が生まれ、次に農作物が豊作になることを祈願するように変わっていった。全国ほとんどの神社がこれです。そしてもう一歩進歩したのが、製鉄や鉱山開発の成功を祈願する神社。青森県弘前市にある「鬼神社」などは製鉄関連の神社です。

そこでたたら製鉄などの関連があるのではないかと考えて調べてみたら有りました。大江山の中腹、奥北原の魔谷地区には古く製鉄が行われていたという伝承が残っています。今でも付近から鉄滓が出るので、古代の野たたらがあったのでしょう。

「ふくお」とは「ふいご」と似た言葉。「吹く」とは精錬関連のことで、そのもっとも重要な道具のひとつがふいご(鞴、吹子)です。「ふく」と「お」に分解してみると、「ふく」は「風が入っていく」。「ふき」は「風が出ていく」という意味。「お」はふいごを動かす男として意識されていましたが、私はそこの先端の尾っぽの「お」だと思います。だから、こちら側は「ふくお」、奥北原の魔谷は「ふきお」と呼ばれていたのではなかと。

古代のたたら製鉄の場合、たぶん良質の炭も生産出来ていなかったと思われますので、材木火力だけで熱をかなり上げなくてはいけません。いちばん熱が上がるのは登り窯形式の一番上の場所です。その場合、風をものすごい勢いで吹き込まなくてはいけません。映画『もののけ姫』で女性たちが使っていた巨大な足踏み送風装置は「踏みふいご」です。頭数が必要なことが弱点ですが、『もののけ姫』の舞台となるたたら場では、兵器もつくっていたから、あれだけの人を雇っていけたわけです。普通はそれほど人がいませんので、自然現象を利用していたと考えるのが普通です。

 

—- 大江山に製鉄所があったということですね?

はい、私はそう確信しています。昔は「自然ふいご(のふいご)」を使っていたようです。大江山の雲海の調査をしているとき、分かったことがあります。稲荷神社の下のところで谷風が吹き上げています。風が吹き上げてくる場所に登り窯をつくると、窯の熱がものすごく上がります。だから、この地に自然ふいご(のふいご)を用いた製鉄所があっても不思議ではないと。

たたら製鉄の場合、燃料の炭が大量に必要となります。つまり材木です。材木が集まる場所にたたら製鉄が生まれるわけです。奥北原魔谷の場合、千丈ヶ嶽と、反対にある空山(標高717m)で伐採した材木をゴンゴロゴンと落としたら、材木は大量に集めることが可能です。

 

—- 燃料はあっても鉄がなければ製鉄は成立しませんが?

確かにそうです。この近辺に砂鉄が採れるところはありません。それでも、赤石ヶ岳(標高736.2m)があります。この呼び名は鉄分を含んだ石が錆びて赤く見えることから付けられたものです。

鉄を含んだ赤石を粉々にして焼いていくと鉄分だけを採取することができます。そういうことをやっていたのではないかと推定できます。この説の場合、赤土の残滓をどこへ運んだのかが問題となりますが、赤石山の周辺にもう一ヵ所、石を砕いた場所があったのでしょう。

まず、自然ふいご(のふいご)で鉄の塊をつくります。次に、それを背負子に背負って内宮まで下りていきます。そこから宮川で舟に載せて、大江町内の金屋地区へ持って行ったと考えています。その金屋地区で兵器等の製品を作っていたのではないか。この場所に兵庫という地名があり、近くでやはり鉄滓が発見されています。

由良川は昔大きく蛇行していました。大江町内の金屋地区、関地区、天田内地区に囲まれている三角形の地帯に、古代由良川の大きな船溜まりがあり、川湊があったことはまず間違いないでしょう。

そこで舟に乗せ、由良川水運を経て、南へでも北へでも製品を運ぶことができる。この周辺は長い期間そういう産業が発達していた地域だったのではないかという推測が成り立ちます。

製品を舟に載せる場所があり、製鉄の成功を祈願するような神社があった。大江山や大江町は弥生時代末期から古墳時代•飛鳥時代•奈良時代•平安時代初期にかけて最先端の産業が興り、信仰が集まった地域だったのではないでしょうか……。

私の推測を裏打ちする文献や木簡などが出てこないかぎり、何の根拠もありませんが、この周辺を発掘すれば出てくる可能性は0では無いと信じています。

 

—- 内宮の周辺で製鉄産業が興り、物流の始点でもあった。製鉄産業の成功を祈願した神社があり、ふくお神社と呼ばれていたものはじつは皇大神社のことだったのはないか……と、こういうしびれるような展開はミステリーの謎解きのようです。でも、ふくお神社と、それとは異なる次元にある「元伊勢」とはまったくつながりませんが?

ふくお神社がどうして元伊勢内宮と呼ばれるようになるのか、そういう疑問が出るのは当然でしょう。平安時代から鎌倉時代、室町時代、戦国時代、あるいは江戸時代にかけてのどこかで「布甲神社」から「元伊勢内宮皇大神社」という名前に変わったはずです。

では、どうしてこの場所が元伊勢なのか? たとえ後になって創られた社だとしても、地域住民は元伊勢としてすんなり受け入れたのには理由があるはずです。

ヤマト王権と元伊勢の深い関係

—- どうして元伊勢と呼ばれるようになったのか? これは本当に大きな謎です。

元伊勢内宮皇大神社社伝によれば創建は崇神天皇39年なので、神話・古文書の世界では紀元前1世紀の話となります。しかし学問的には紀元後3世紀末頃の話だろうと考えられています。

その時代背景を調べていったとき、ヤマト王権が最初から日本全土を支配していたわけではないことがわかっています。出雲王国等それぞれの地域に独立国家が有ったのです。

では、北近畿地方はどんな状況で、いつ頃どんな経過でヤマト王権に含まれて行ったのでしょうか?

これについては古文書には書かれていません。推測されているのが、弥生時代末期から古墳時代にかけて、日本列島は王国と小部族国家連合が並立しているような状態だったということ。小部族国家連合とは、同じ神様を祀り、親戚関係をもつものの、各部族国家は独立して成り立っていました。そのような中でヤマトは政略結婚と武力によっていち早く地域の小部族を統一し、領土を拡大し王国となっていったと考えられています。

 

—- ヤマト王権の大王は崇神天皇が最初だと考えてもよいのでしょうか?

実は第10代崇神天皇の諡(おくりな=死者に贈る称号)は初代の神武天皇と同じなのです。このことから、部族国家としてのヤマトは神武天皇から始まったが、周りの小部族国家を統一して大王に初めてなったのが崇神天皇だろうといわれています。

大王は小部族国家と政略結婚を繰り返し、崇神天皇の妃となる娘を差しだした部族長たちは崇神天皇の配下となり、貴族となっていったと考えられています。

そういう政治、国づくりが始まったのが崇神天皇の代。そして、ヤマトは王国となったのです。同様に出雲や吉備、古志なども王国になっていたのでしょう。

これに対して北近畿地方のタニハは、地域共通の神様である豊受大神を奉斎した小部族国家連合であったと考えられます。

それでも、ヤマト王権と親戚関係はあったので、9代開化天皇から第10代崇神天皇への移行期に北近畿地方に大きな変化があったのではないかと私は見ています。

ところで、「小部族国家間で親戚関係が密になりそのリーダーの系統を追うことが一部出来るようになっているので、古代の丹後地方も王国と呼んでも良いのではないか」と古代王国成立説を唱えたのは、歴史学者で京都府立大学名誉教授だった故門脇禎二先生です。ここから「丹後王国」という言葉がひとり歩きしていきます(丹後という地名は奈良時代になってから!)。

 

—- そのタニハの地方がヤマト王権の支配下になったということは、先ほどのふくお神社も王権の支配下に置かれたわけですね?

はい、そうです。ヤマト王権からすれば、タニハ地方は喉から手が出るほど欲しかった地方でした。それはヤマト王権では、製鉄が大きな問題だったからです。

東アジア地域で、その当時、鉄を最も多く生産していたのは朝鮮半島の伽耶地方でした。調べていくと、中国も日本列島も朝鮮半島の南部から鉄を輸入していたことがわかりました。ヤマト王権もそこから鉄を輸入していたのです。

出雲とタニハは鉄を輸入すると同時に生産もしていました。出雲はやがて自前で生産する量が圧倒的に増えていきました。一方タニハでは自前で大量の砂鉄が採れなかったため、山陰や北陸から鉄を輸入し、地元で製鉄を行なうようにしていました。製鉄コンビナートのようなものですね。京丹後市の遠處遺跡(えんじょいせき)がその典型です。

 

—- 製鉄がヤマト王権の大きな問題だったというのはどういう意味ですか?

その頃、ヤマト王権は北九州の小部族を介して鉄を輸入していました。ところが両者は何故か仲たがいをして瀬戸内海航路を使った鉄の輸入が途絶えたと古代経済史の研究者は考えておられます。それにより鉄を運ぶのに瀬戸内海航路が使えなくなり、日本海航路が必要になり、日本海航路を持っていたタニハ国を支配下に置こうということになったのです。

そんなわけで、ヤマト王権はタニハ地方を吸収したいたと考え、政略結婚を企てました。ところがタニハは王国ではなく、小部族国家連合でした。

そこで、タニハ地方の有力者に話をしてまとめてもらった見返りに、部族の娘を皇后に迎えることにしたのです(第11代垂仁天皇妃)。タニハの有力者は国王と親戚関係になり、国王と手を組んでヤマト王権を支えたのでしょう。

そして「元伊勢伝承」が始まった

—- 製鉄工場のために神社を建てて祀ったほかに、その前に大江山はもともと神聖な場所として庶民に崇められていたという話を聞いています。ベースにあるのは原始的な山岳信仰ですか?

その話をするには、まず人々が暮らしていくうえで最も大事な米の話をしなければいけませんね。

古代日本には大勢の渡来人が中国大陸から日本列島へやってきています。中国大陸と比べて日本列島で最も大きな問題は冬が寒く、雨が降っても保水が出来ないこと。7月、8月になると日照りが続き、水が不足します。では、どうしたらお米を安全に生産できるか?問題は水と気温です。

古代中国大陸の長江中流域からジャポニカ種の種籾を持って北九州地域に逃れてきた渡来人は、そこで縄文人と混血し弥生人に進化して人口を増やします。その子孫たちは更に稲作に適した地域を探して太陽の昇る東に旅をしていたら、たまたま丹後半島(京丹後市久美浜町川上川流域)へたどりつき、その東に在る比治山周辺地域で何年間か試行錯誤を繰り返しながら稲作を行い、そして安全に収穫する為の種籾を撒くタイミングを測るのに適した場所を探していたものと考えられます。

その彼らは丹後半島から見える一番高い山が与謝の大山の千丈ヶ嶽に登り、太陽の昇る東に流れる3本の流れを確認し、下って行くとその流れが合流する地点に出くわします。そしてその場所でピラミッド型のきれいな山を見つける事になります。

日本列島の場合、深い森から流れてきている谷川が合流する場所は、日照りになっても水が確保出来る確率が高くなります。そしてピラミッド型のきれいな山には丁度夏至の日に太陽が頂上に沈む事を発見します。

彼らは「これぞ神様のお告げ」と思い、その時に種籾を撒いてみました。稲はその生育速度から5ヵ月で稲刈りが出来るまで成長します。この稲刈り(石鎌による籾刈り)の後ご飯を炊いて神様に御供えし、皆で初収穫の米を食べる儀式が生まれたのではないか?つまりこれが11月23日に行われる新嘗祭の起源です。

 

—- ところで、稲作と元伊勢伝承がどうして結びつくのでしょうか?

先に話したように夏至の日、ピラミッド形の山の頂上に太陽が沈むことに驚き、古代タニハの小部族長たちがこの地に遥拝施設をつくり、夏至の日にみんなが集まって、その年の豊作を祈念してピラミッド型の山(日室ヶ嶽)に沈む太陽にひれ伏したと想像しています。

弥生時代の後の方になってくると、米はもっと大量生産できるように変わっていったけれど、遥拝の儀式だけは残っていたのでしょう。

このように部族長が一堂に会した聖なる場所だったので、ヤマト王権がタニハ国を吸収合併したとき、タニハ地方の精神的中心地であるその場所にヤマト王権側の神社を建て、「これからは皆さんの神様は天照大神ですよ」と宣言した。……こういうことがあったのではないでしょうか。

タニハ地方には政略結婚で結びついた協力者もいたから、4年間あれば、天照大神のご神体を元のヤマトに戻しても治まるだろうという事で4年間だけ祀られていたのではないか。

こういう経緯が実際にはあったのではないでしょうか?

ヤマト王権がタニハ国を吸収合併したとき、大王が「この地方の要所に天照大神を祀る神社を建てろ」と命じたこと。これが元伊勢伝承の始まりなのではないでしょうか。推測としては十分成り立ちます。

元伊勢の在る場所はかなり古代から人々の崇拝を集め、信仰の対象となる場所だったのでしょう。だからこそ元伊勢内宮は「元伊勢第一号」という形で、崇神天皇の代に祀られたのではないかと考えられます。

ただし、この元伊勢伝承地の話が創られたのは、ずっと後になってからです。いろんな事の辻褄が合うように創られたものです。それでも、何らかの根拠があったから元伊勢伝承の地として見られるようになったわけです。

伊勢詣ブームと元伊勢との蜜月

—- ヒリヒリする展開ですね。では、ここで視点を変えましょう。「元伊勢」とは、伊勢神宮が有名になって初めて有効になる言葉です。元伊勢とは、江戸時代に起こった集団参詣ブーム以降にできた概念でしょうか?

いいえ、「元伊勢」という概念が生まれたのは、江戸時代よりもっと前で、飛鳥時代であった600年代の中ごろ以降です。一般庶民が行なう伊勢詣は室町時代からあったらしいのですが、有名になったのは確かに江戸時代です。伊勢詣ブームに合わせて元伊勢という概念が広まっていったといえるでしょう。

 

—- ということは、皇大神社も室町時代以降に元伊勢として認識され、その後の伊勢詣ブームにより有名になっていったのでは?

皇大神社が元伊勢として有名になるのは江戸時代です。江戸時代には、数百万人規模の庶民が、およそ60年周期(「おかげ年」)にお伊勢詣ブームが起こったといわれています。庶民がお伊勢講(信仰をもとに結成された信徒集団)を組織し、積立をして旅行に出かけたわけです。

江戸時代になるまで、近江から伊勢へ抜ける鈴鹿山は難所として知られ、庶民はたびたび山賊に襲われ、殺されています。そこで江戸時代になると各藩は、庶民の伊勢詣を禁止しました。それを破ってでも伊勢へ向かう人があまりにも多かったために、「伊勢詣はダメだけど、元伊勢詣なら出かけてもよろしい」という許可証を発行したのです。その頃から元伊勢は急激に賑やかになっていったのです。

 

—- それでも、元伊勢三社だけでは吸引力が弱いような気もしますが?

江戸時代に江戸から伊勢神宮へ参るツアーが大流行しましたが、じつはそのついでに有名な西国三十三ヵ所(観音信仰の札所巡礼)もしようという動きが始まったのです。これは神宮と寺院の両方を信仰する神仏混合の最たるものです。

こうして庶民が西国をめぐっているとき、「どこどこには元伊勢さんがあるらしい」という話を耳にするようになるわけです。通常であれば、24番中山寺から25番播州清水寺(現兵庫県加東市)、26番法華山一乗寺(加西市)、27番姫路市の書寫山圓教寺(しょしゃざんえんきょうじ)、そして28番目に宮津市の成相寺を巡るわけです。

お遍路で札所にお参りすることを「打つ」といいますが、大阪のボンボンが反対まわりにめぐる「逆打ち」のコースを考案し、そのコースがブームになったのです。それは24番中山寺から先に六甲山の南の神戸を通り、27番書寫山圓教寺に寄り、26番一乗寺、25番播州清水寺へ行ってから、現国道175号を北上していくと福知山市へ到着する。当時の人からすれば、「福知山から宮津へ抜ける街道の途中に元伊勢さんがあるで。ほな、元伊勢さんへ寄って、次に成相山へ行こか」という話になるわけです。このコースのおかげで元伊勢神社はそうとう賑やかだったといわれています。

元伊勢神社を含む聖地が一直線に並ぶ謎を解明する

—- 北緯35度22分から27分の直線上に並ぶ遺跡や聖地に元伊勢神社も入っていると聞いたのですが、これは本当ですか?

はい、そのとおりです。太古の遺跡や信仰の聖地などが意図的に直線状に並ぶように配置されることをレイラインといいます。もともとは古代イギリスの巨石遺跡群を研究する考古学者が提唱した概念です。

元伊勢神社は日本の春分・秋分のライン(北緯35度22分-27分)にあり、同緯度の東西ラインにいろんな遺跡や聖地が横に並んでいます。

山岳信仰の聖地で山頂に縄文遺跡が点在する伊吹山(滋賀県米原市)、富士山信仰の聖地である富士山、大国主命を祀る出雲大社です。近年、「パワースポット」と呼ばれる場所ばかりです。なお、元伊勢三社-出雲大社の距離、伊吹山-富士山の距離は約210㎞とほぼ同じ

▲出雲大社、元伊勢三社、伊吹山、富士山は北緯35度22分-27分のラインに並ぶ

地形学の見地から調べていくと、何百年、何千年の間に日本列島は、西のほうは少しずつ北へ、東のほうは少しずつ南へずれていっていることがわかっています。そのため「2000年ほど前なら、ほぼ同じラインに並んでいたのではないか」と指摘する学者もいます。「このラインは文化や富の拠点になっている場所かもしれない」と唱える識者もいます。

磐座の在る伊吹山の頂上、同じく磐座が在ると考えられる元伊勢内宮皇大神社、このラインを基準にし、伊勢神宮と淡路島の伊奘諾神宮(いざなぎじんぐう)は同緯度の東西ライン上にあります。そのセンターラインには、平城京や熊野本宮大社(和歌山県田辺市)が並びます。これらの点を線で結ぶと逆五芒星があらわれます。

飛鳥時代に平城京(現奈良市西部、大和郡山市北部)の場所を選ぶ際、この逆五芒星のラインが結界であると意識して遷都したのではないかといわれています。

▲北緯35度22分-27分のレイラインと中央のセンターラインを軸に、神社や聖地を結べば逆五芒星があらわれる。

—- 逆五芒星のラインは太陽の運行状況とも関係していますが、中国大陸から伝来した陰陽五行思想に則って考えれば、魔除けの符号ともいえます。日本列島を俯瞰して遺跡や聖地が並ぶラインに平城京の配置を設計した人がいたということでしょうか?

平城京そのものの位置を逆五芒星が描く結界のなかの中心部に置く……そういう設計を誰かがしたのではないか、という質問ですが、当時、飛行機はないのだから俯瞰して見ることはできません。しかし伝承があり、頭のなかで計算した人はいるのだろう、と指摘する学者や研究者はいます。

 

—- 遺跡や聖地が春分・秋分の同じ線上に並ぶことを、王権の中心者が意識したのはいつ頃だったとお考えですか?

推測で確認できる範囲でいえば、飛鳥時代です。ところが、それを確認するものを証明するためには飛鳥時代には少なくともそれ以前の経緯を理解していた、伝承があったということを前提にしなければ、成り立ちません。であれば、どうして飛鳥の人々は飛鳥時代より前の話を知っていたのか? その部分はよくわかりません。

そもそも山の位置は変えられません。伊勢神宮や熊野本宮、伊奘諾神宮でなく、山の位置をすべての基準にしているのではないかと推測できます。

そういうことを計算できた人間が古代にいたはずです。こうした背景から「失われた十支族」や「原始キリスト教」の人々が大量に日本へ入ってきていたことは証明されていますが、その人たちが学問的な知識を駆使して聖地の配置を設計したのではないかという説が出てきています。

 

大江町から水路・陸路で運ばれた豊受大神

—- 元伊勢外宮豊受大神社が誕生する経緯については、どのように説明されておられますか?

元伊勢外宮豊受大神社については、第21代雄略天皇の代、雄略天皇22年、夢枕に天照大神が出てきて天皇に告げたというくだりから、話を始めましょう。

そのお告げは、現代文に直すと次のようになります。

「天照大神が夢枕にあらわれ、伊勢神宮という立派な社をつくってくれ、丁寧にお祀りしてくれて、自分は嬉しい。それでも、夕食のとき、ひとりだけで寂しい。あまりにも寂しいので、つらつらと考えるに、タニハにいた頃は豊受大神がご飯をついでくれ、地元の話もしてくれて楽しかった。悪いけど、豊受大神をタニハの国から呼んできてくれないか」

このように頼まれたので、雄略天皇はタニハ国から現在の伊勢市へ遷宮したのです。

当時はもちろん、飛行機もヘリコプターもないので、移動の途中、休憩しなければいけません。ところが、神様の休憩となれば清らかな場所以外は許されません。休憩する際は、浄めの儀式を行ない、社を建てて神様に引っ越してもらい、そこでお祭りをする。ということを繰り返していくわけです。

元伊勢外宮豊受大神宮はその巡行のいちばん最初に休憩した場所だといわれています。大江町にもそういう伝承が残っています。

 

—- どのようなルートでご神体を運ばれたのか、赤松説を教えてください。

元々は比沼麻奈為神社の奥の比治山の中腹に在った磐座がご神体だと思いますが、その丹後半島から豊受大神のご神体を運ぶ際、水路と陸路がありました。大切なものは水路で運んだようです。当時の水路を推定して発表した学者がいます。それによれば、由良川を上っていき、福知山から由良川水系の竹田川に入り、現兵庫県丹波市にある「日本一低い分水嶺」の近くで舟を降りて、移動すると加古川の上流に入ります。そこまで荷物を運んで舟に載せると瀬戸内海へ出ます。瀬戸内海から大阪湾をぐるっと海岸線沿いに移動すると、大阪の平野区のあたりは全部海であり、そこへ流れ込んでいる大和川に入って進むと奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)のど真ん中に出ます。ですから、たぶんこのルートを使っているのではないかと言われています。

陸路に関しては大江山越えを行なったと推測できます。陸路と水路の合流地点が、現在の元伊勢外宮豊受神社のある辺りだったのでしょう。だから休憩所に選ばれたのだと推測しています。

元伊勢外宮前方後円墳説を唱える理由

—- 赤松さんは元伊勢外宮豊受大神社を古墳と見なす説を唱えておられますが、その根拠は?

私は前方後円墳ではないかと推測しています。考古学者と話をしていると、「大江山連峰の東南側からは前方後円墳は発見されていない」「土質や周囲の小さな古墳の配置などを鑑みてみても、前方後円墳であるはずない」と主張されます。

それでも、私が考えを改めない理由は、まず地名の問題。「舟」という発音から連想するのは「水の上に浮かぶ乗り物」のことです。しかし「湯舟」といった場合、水の上には浮いていません。湯は内側にあります。何かの上に浮く、または何かが入っている。こういうものを「舟」と呼ぶわけです。

神話・伝承の面から調べていくと、亡くなった人を丁寧にお見送りするとき、「舟の中に納められたご遺体を乗せて黄泉の世界へ運んでいく」といった表現が使われていることに気づきました。つまり、棺のことを舟と呼んでいたのではないかと考えたのです。

日本列島の各地にある「舟」「船」と名づけられた地名のうちの3分の1くらいは、川舟や海の船と深く関係しているようです。たとえば「船越」なら船が越える場所なので水との関係がよくわかります。

しかし「湯舟町」といった場合、「湯舟に使う材木を切り出した場所だからそう呼んだ」という説がありますが、そのはずはないと私は考えています。その理由は、湯舟が必要になったのは江戸時代の中頃以降のことで、地名はそれより遥か前につけられているからです。

では、舟とは何か? やはり棺桶、棺を意味している、つまり、古墳ではないかと推測できるのです。元伊勢外宮豊受大神社は船岡山にあります。そこから「棺桶が納まっている岡」を意味していると推定できるのです。

 

—- 船岡山を古墳とするなら、長さ100mにも及ぶめちゃくちゃ巨大な古墳ということになります。では、誰が葬られたとお考えですか?

山全体を前方後円墳とした場合と、普通の円墳とした場合とでは、可能性が分かれてきます。

仮に前方高円墳であるとした場合、ヤマト王権側の人間が葬られていることになります。それは誰でしょうか?

「第9代開化天皇の孫で、丹波地方に派遣され、そこを平定したといわれている丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)ではないか」という説があります。しかし私はそれとは異なり、その父親である日子坐王(ひこいますのきみ)ではないかと見ています。

ヤマト王権は天照大神をタニハ国へ遷宮しましたが、鎮座したのはたった4年間でした。そしてヤマトに帰った後この地は聖地ではなくなったため、元々の地場の神様は祟る訳です。これに対してヤマト王権側は、地場の神様がヤマトに災いをもたらすことを恐れ、その怒りを鎮めようとし、怨霊を抑えるためにタニハを吸収合併するときに、反対派の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を討った日子坐王の墓をタニハ国に設けたのではないでしょうか? それが前方後円墳形の船岡山、つまり元伊勢外宮豊受大神社のある山そのものなのではないか、と私は考えているのです。

理屈は成り立ちます。でも証拠は出てきていません。ですから、もしあなたが宝くじを当てたら、ぜひ私にください。それを資金にして発掘調査を行ないますから(笑)。

【参考文献】※

『古事記』『日本書記』『倭姫命世記』『吉佐宮御鎮座伝』

【編集担当より】

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